精華苑のエビそば【世田谷の介護ヘルパーのグルメ 第22話 前編】
精華苑のエビそば【世田谷の介護ヘルパーのグルメ 第22話 前編】
東京の世田谷で介護の仕事をしている清水です。
【世田谷の介護ヘルパーのグルメ】の記事を、約半月ぶりで執筆しています。
ブログ投稿をしばらくお休みしていた理由は、私の母が突然亡くなったためです。
その予期せぬ出来事に、私を含めた家族、親戚一同が大きなショックを受けました。
正直なところ、まだ心がざわついているのですが、いつまでも落ち込んでいる訳にはいきません。
今回の実体験を文章にすることで、自身の気持ちを整理するとともに、”高齢者の急変”に対する注意喚起の機会にしたいと思っています。
なお、文字数がかなり多くなりそうなので、この第22話は前・後編の2部構成とさせていただきます。
11月26日 父からの電話
全ての始まりは、福島県に住んでいる父からの電話でした。
11月26日(火)の17時頃、私の携帯電話に実家から着信がありました。
『こんな時間に何だろう?』と思いながら、電話に出てみました。
すると、母の様子がおかしいと、父が真剣な声で伝えてきたのです。
その3日前の11月23日(土)に、母から電話をもらっていました。
高校教師だった父の生徒たちに招待され、明日から1泊で会津の温泉に行ってくるという内容の連絡でした。
とても嬉しそうで、元気な母の声が印象的でした。
まさか、それが最後の会話になるとは夢にも思いませんでした。
父の電話を受けて、『旅行の疲れが出たのかもしれない』と思いました。
過去、同じように疲れてソファで休む母の姿を何度も目にしていたからです。
しかし、約1時間後に掛かってきた次の電話で事態は一変します。
その電話は、父が救急車を呼び、母を病院に救急搬送したというものでした。
あまりに突然のことに父も当惑していたのか、私が母の容体を知るために質問しても、”深刻な状況”という抽象的な表現を繰り返すばかりでした。
もどかしさを感じた私に、同じ福島県内に住む兄から電話がありました。
その日たまたま仕事の代休だった兄は、父の第一報を受けてすぐに実家に向かっていたのです。
妙な胸騒ぎがおさまらなかった私は、その後の予定を取りやめて神奈川県の自宅に向かいました。
11月26日 母の病名と苦い記憶
11月26日(火)の21時ちょっと前だったと思います。
自宅で待機していた私に、兄から電話がありました。
母の状態を尋ねた私は、その回答に言葉を失いました。
「重度のくも膜下出血…」
その病名を聞き、私の脳裏に悪夢が蘇りました。
実は、高校3年の時に同級生がくも膜下出血で亡くなっているのです。
担任の教師から訃報を聞いたクラスの全員が号泣しました。
その悲痛な光景は、30年以上経った今でも忘れられません。
そして、その経験でくも膜下出血の怖ろしさを思い知っていた私は、母の意識がもう戻らないと直感しました。
一刻の猶予もないと感じた私は、すぐに実家に帰ることを決めました。
しかし、自宅から東京駅に出るには時間がかかり、福島行きの最終の新幹線(21時44分発)に間に合うか微妙な状況でした。
そのため、帰省の手段を車に切り替え、圏央道から東北道に入るルートで福島に向かうことにしました。
まるで私の心情を投影するかのように、夜になってから降り出した雨は激しさを増していました。
11月27日 睡魔との戦い
フロントガラスに叩きつける強い雨。
視界不良下での長距離運転による疲労で、午前0時を過ぎた頃から徐々に睡魔が襲ってきました。
当日は小学2年の息子が体調を崩しており、看病役の妻を自宅に残して単身で出発しました。
そのため、運転の代わりはおらず、しばらくは自分の体を叩いたり、つねったりして睡魔と戦っていました。
しかし、生理現象には抗えません。
『事故を起こす訳にはいかない』
私は病院へと急ぎたい気持ちをグッと堪え、佐野サービスエリアで15分の仮眠をとることにしました。
車を停め、目を閉じました。
そして、ハッと気付いた時には、30分近く経っていました。
寝過ごしてしまったものの、仮眠のおかげで何とか運転できる状態になりました。
福島まで残りの距離は約210キロ。
所要時間は2時間半ぐらいなので、到着は午前3時を過ぎる見込みです。
幸い、雨は徐々に弱くなり運転しやすくなってきました。
それから、祈るような気持ちで、ハンドルを握り続けました。
11月27日 母との再会
午前2時を過ぎた頃、ついに福島県に入りました。
いつもは故郷が近づくと嬉しさを感じるのに、今回はそれがありません。
疲労困憊で、夢か現実かもよく分からなくなっていました。
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら運転を続け、ようやく高速を降りた頃には午前3時をまわっていました。
福島の市街地へ向かう途中、信号待ちを利用して兄に連絡をとりました。
父の疲労を心配した兄は、父を連れて病院から一旦実家に戻っていました。
結局、私が実家に到着したのは3時20分過ぎ。
お互いを労った後、3人ですぐに病院に向かいました。
必要な面会の手続きを済ませてから、病室に向かいました。
11月27日 2人だけの病室
私が病院の集中治療室に入室したのは、11月27日(水)の午前4時頃でした。
この病院のルールにより、先に面会していた父と兄は母の病室に入ることが出来ませんでした。
ベッドで寝ている母は、何事もなかったかのように穏やかな表情でした。
くも膜下出血は、ハンマーで頭を殴られたような壮絶な痛みを感じると聞いたことがあります。
母は昏睡状態ではあったものの、苦悶の表情でなかったことは救いでした。
病院に向かう車の中で、私は兄から母の容体について話を聞きました。
兄は医師から、「今夜のうちに亡くなるかもしれない」と言われたそうです。
自分なりに覚悟して面会に臨んだはずでした。
しかし、受け入れがたい現実を前に、深い悲しみが込み上げてきました。
『おふくろ…』
溢れ出る涙を拭いながら、母の額や頬に手を触れて何度も呼びかけました。
肌の温もりは感じられるのに、聞き慣れたあの声は返ってきません。
静寂の病室内で、人工呼吸器の音が響いていました。
– 後編へ続く-